「金色の光」あらすじ

中国の正月にあたる「春節」は、黄河路の麗都花園で寝て過ごした。凍てついた石の階段で転倒した後遺症を癒しながら、頭では冬虫夏草の真髄を見抜こうと必死にもがいていた。この秋までに、強い子実体が発芽しないと計画は終わってしまう。心まで病んでしまって頭の中に去来するのは、街角で見かける「大陸乞食」という外国人失敗者の姿だった。そうだろう、川浪の祖先もこの地で果てたんだし、どうせこの自分も祖先の運命を辿るのだろう。
朦朧とした頭をよぎったのが、海城のホテルで蟻(アリ)を渡してくれた、見たこともない男のこと。流ちょうな日本語で「疲れた時にはこの蟻を食べなさい」と、手渡してくれた不思議な出来ごと。そうか、強靱な薬用蟻と栄養豊かな食材を培地にして強靭な菌体を植えつければ、否が応でも、強靱な冬虫夏草が出現するはずだ。おぼろげながら、進むべき道筋が見えてきた。

薬用蟻を探そう。中国には、北の長白山に馬蟻がいて南の江西省には擬黒多刺蟻という凄い蟻がいる。全面的な見直しを図って、擬黒多刺蟻ベースの培地をつくり、冬虫夏草を植え付けてみた。凄い勢いで発芽して箸のように太い子実体がビッシリと伸びだした。努力の結晶を1本引き抜いて口に含み、噛みしめると冬虫夏草特有の甘い香りが口腔に広がって、ゴムのような強い弾力を感じた。
大成功だ、金色の光を放つ強靱な冬虫夏草が見事に育った。

薬用蟻を渡してくれた男The man who gave me medicinal ants

冬虫夏草をカップで栽培

冬虫夏草はやはり神秘だった

漢民族の年始にあたる「春節」は、通常、2月末から3月始めごろに巡ってくる。その前後の2~3日は、市民を挙げて昼も夜も夜中も、爆竹を鳴らしロケット花火を打ち上げてお祝い、いや、大騒ぎをするのが慣わしがある。
凍てつく朝、階段に転倒して頭を強打した川浪は、住まいの麗都花園のベッドに寝転んだままで孤独な春節を迎えていた。
頭の傷よりも首の捻挫の方が激しく痛んでいたが、不幸中の幸いというか、中医からは脳内出血も頭蓋骨の挫傷も頸骨の損傷もなく「脳震とう、腎虚が原因の目眩(めまい)」だと診断されていた。腎虚とは、腎臓の栄養が欠乏することから起こる体調不良だといわれている。亜鉛、鉄分などのミネラル摂取、そして安静が一番とアドバイスを受けたが、ここで寝てても身体が良くなるわけではないし冬虫夏草も上手く育つこともない。
春節が明ければ氷も緩んで、春の陽気とともに冬虫夏草の菌糸にも勢いが戻ってくる。何とか頑張って体力と気力を回復させなければ、そして今度こそ成功させなければ、もう後がない。
次の寒い冬が訪れると、成功がまた1年延びてしまう。だから仕事になるのは、残すところあと半年。それから先は資金も底をついてしまうし、この身体では再起も望めないだろう。
川浪の頭の中に「大陸乞食」という4文字が、大きく浮かんでは消えた。
この言葉は、チャイニーズ・ドリームを狙って中国に進出し、失敗に失敗を重ねながら広い中国を彷徨う外国人浮浪者(中国人から見た)のことである。その心の中では「この地で果てるのは川浪一族の宿命かも知れないな」と、断念の可能性を探っていたのかもしれない。

麗都花園は、大連市街地の北側を貫く黄河路に面した24階建ての古びたマンションである。その22階の裏通りに面した一室では、巷の喜びとは相反して苦悶の表情を浮かべる一人の男がいる。夜に昼にと絶え間なく続く破裂音に、もはやうんざりとしていたのである。
窓ガラスのすぐ外にも花火が飛んできて眼の前で弾け、パッと白い閃光が広がっていた。硝煙がたなびき、セピア色に染まった空を茫洋として見上げながら、頭の中では、走馬燈のように繰り返し過去の情景をなぞっていた。
何とか、何とか成功のヒントを掴みたい。集中しよう、集中してもう一度、冬虫夏草の真の心髄まで見透してみなければ、前に進まない。
ベッドに転がって窓に背を向けながら眼をつぶると、冬虫夏草を探し求めた頃の懐かしい台湾阿里山や中国の山々の風景が浮かんでは、通りすぎていた。
そうだったなあ、阿里山の深い谷の斜面で採取した見事な冬虫夏草の一株が頭に浮かんだ。分厚い枯草を静かに掻き分けると、ちょうどマッチ棒のような形状をしたオレンジ色のキノコの根元に、黒い腐葉土がもぐれ付いた昆虫の幼虫が付着していた。さらに掘り進んでみると、白髪の毛のように長く伸びた菌糸は周辺に広がり、さらに瓦礫にまで入り込んでいるように見えた。
ということは・・・
昆虫、腐葉土、そして瓦礫に含まれているミネラルや栄養成分が、強靱な冬虫夏草を育てるにために必要な栄養条件なのかも知れない。
だとすると、強い栄養成分をバランス良く組み合わすことで、強力な冬虫夏草が育つ、ということか。
そういえば相撲取りだってアスリートだって、みんなそうだ。数種類の栄養豊かな食材をバランスよく食べることが、強靱な身体と見事なパフォーマンスを生みだす要素となっている。
より強靱な昆虫とより栄養豊かな腐葉土、これにバランスに優れたミネラルを配合した培地を作成すれば、大自然のそれと同じように強靱な冬虫夏草が出現する可能性がある。
久方ぶりに冴えてきた頭脳は、台湾大地震を3ヶ月ほど前にさかのぼる6月、ちょうど川浪の誕生日に投宿していた遼寧省海城市の海城大酒店に忽然と現れた男のことを思い出した。
早朝のコールに起こされてエレベータを下りると、ロビーに立っていた老人。
中国人には珍しい銀髪と古っぽい紺色の人民服を着た小柄な男は「酒に漬けておいて、疲れた時に飲みなさい」と流暢な日本語を話しながら、シワシワのビニール袋に入った一掴みの異物を手渡してくれた。
出会ったこともない人である。そのままゴミ箱に放り込むことも考えたが、部屋に戻って袋を開けてよく見ると、何となく蟻に見える。
日本に帰ってホワイトリカーを買って、そのなかに入れ、2~3ヶ月ほど漬け込んで恐る恐る飲んでみた。
忘れもしない、あれは、台湾大地震の直前だった。コップの底の黒い液体。嗅いだこともない強烈な土っぽい香りが鼻孔を突いたが、興味の方が勝っていたので鼻をつまんで飲み込んだ。
その夜、辛かった座骨神経痛の痛みから解放されて、ぐっすりと眠ったような記憶が蘇える。
そうか、あの蟻が、まさしく噂に聞いた薬用蟻なんだな。
強い蟻とは、紛れもない強靱な昆虫。
そうか、薬用蟻から発芽する冬虫夏草というのも突飛だけど、まさしく当を得た組み合わせかもしれない。
薬用蟻で有名な長白山の「馬蟻」は自重の300倍という食餌を提げて巣まで帰ると聞いたことがあるし、体力減退、精力減退した老人が探し求めて食べるというほど中国では有名だ。
試してみようか、いや、試すより他に道がない。ひょっとすれば、これがゲームチェンジャーになるかも知れないから。

さっそく薬用蟻探しを始めた。しかしながらあの老人を探すことは、渤海に落としたスプーンを探すに等しく不可能に近い。
それに、もう時間がないのだから、のんびりと探すことだけを考えてはいけない。
それならば、中国で「凄い」と評判の高い蟻を数種類集めてみて、自分が食べてでもテストをしてみるしかないだろう。
食用菌協会で知り合った各地の朋友に連絡を入れて、集めてくれた蟻を粉にしてカプセルに詰め、手当たり次第に配って食べてもらう作戦に取り組んだ。
その中に、中国南西部で棲息する擬黒多刺蟻と呼ばれる極めて有名な薬用蟻があった。粉にしてカプセルに詰め、日本に飛んで友人知人に送りつけて経過を待った。
その一人、大分県の友人から連絡があったのは荷物を送った3日後の夕刻だった。
電話の向こうで「痛風で寝たきりの祖父ちゃんに食べさせた。起き上がって、外で植木の刈り込みを始めたよ」と、驚く声が弾んだ。
「すごい、よし、この蟻を使おう」
擬黒多刺蟻といえば、薬用蟻の中では超ブランド品だし、決断するのに時間は掛からなかった。
さっそく大連に帰って、蟻をどのように使うかの検討に入る。
蟻に直接、冬虫夏草の菌糸や組織を植えつけるのは至難の業だ。わずか体長6ミリ程度の蟻に組織を確実に植えつけるのは高等技術にほかならないし、手間もかかる。
ならば、たくさんの薬用蟻に冬虫夏草の菌糸を振り掛けるのはどうだろうか。蟻の硬い表皮を突き破って、菌糸が入り込む確率は低い。それなら、たくさんの薬用蟻を砕いて遠心分離し、硬い殻から搾り取った内液を使ってみようか。しかしながら、この方法だと1キロの薬用蟻から10ミリグラムの内液も搾れない。そして辿り着いたのが(社外秘なので書けないが)・・・という方法である。

同時に進めたのが、冬虫夏草という菌種の選別である。研究はすでに前人未到の領域に入っていたから、誰も教えてくれないし参考になるような技術解説書も見当たらない。すべて自分たちでテストを繰り返しながら、前に進んでゆかねばならなかった。
川浪が抱いていた、基本的な不安・・
「この菌株で正しいのだろうか?」というものである。
過去の試験の経過を整理すると、同じようにチョロチョロとした発芽でも、菌糸の伸長スピードとタイミングが違う種菌の問題が残る。
一つは植物性のみの栄養環境でも伸びる菌種、もう一つが、昆虫のみの栄養環境で伸びる菌種である。どうでも、外見は同じように見えても、菌株にはいろいろな種類が有るようだ。
この問題を明確に整理しなければ、成功することはない。研究はより複雑化したが、種菌毎にブロックを区分して行うこととなった。
急ごう、テストに要する時間はもう少ない。
抽出した薬用蟻成分と腐葉土に見立てた植物材料をベースに果物でPHを調整したケーキ状の培地を作り、数十個のシャーレーの上面に、冬虫夏草の組織を植えてみた。
これなら安易に効率よく作業できる。
その一群、薬用蟻ブロックの茶褐色の培地が白い菌糸で覆われた。1週間後、さらに2週間ほど経つと、培地表面がオレンジ色に染まって、おびただしい数の米粒を立てたような発芽を迎える。
驚いた、何だこれは。
菌糸の伸長がえらく早いぞ。
加油(がんばって)!
そしてさらに2週間・・・
川浪は、培地の表面に割箸の先ほどもある太い子実体がビッシリと成長してゆく光景をこの目で見た。
まさしく、暗闇で輝く金色の光・・
摘み取って食べてみようと、努力の結晶を1本引き抜いて口に含み、そっと噛みしめてみた。冬虫夏草特有の甘い香りが口腔に広がり、ゴムのような強い弾力を感じた。
「やったぞ、大成功だ」
擬黒多刺蟻をベースにした、強靱な冬虫夏草が見事に育ちつつある。
これなら、2次培養でも3次培養でも活力が落ちることはない。大規模栽培に一歩近づいた、と確信したのは03年6月のことだった。

中国遼寧省の夏は過ごしやすい。日中の最高気温は30℃に達するものの、日陰に入ったり陽が落ちると、空気が乾燥しているからか、サラッとして気持ちがよい。
それでも冬虫夏草にとっては少し暑いようで、28℃を超えると活性が急速に低下してゆく。
急ごう、成功はすぐ目の前だ。
そして8月8日の立秋を境に、菌の活性は再び上昇する。またもや、より強靭さを増すための試作を繰り返す日々となった。
手持ちの資金は完全に底をついていて、あのセーフガードによって門司港から送り返された椎茸コンテナの輸送費も、大連港の通関費や冷蔵倉庫保管料も、取り扱ってくれた船会社(コンテナ輸送)に支払えない状況だった。仲が良かった公司総経理(社長)の李さんも「規則だから」と、裁判にかけて大連渓流公司の銀行口座を差し押さえることに、よって公司の業務は完全に閉塞状態に陥ってしまった。
開発に携わってくれたスタッフ3人の給料は、擬黒多刺蟻の粉をカプセルに詰めて日本で売り歩き現金を稼いで、それを公司に持って帰ってから社員たちに配るという綱渡りが続いた。
でも不思議なことに、辛さも苦しさも不安も消えていた。川浪のことを「お父さん」と呼ぶ社員たちは「心配しないで、私たちが大連空港で靴磨きしてでもお父さんを助けるから」と、励ましてくれていた。
その上に、最悪だった体調も、薬用蟻が効いたのか育った冬虫夏草をプチプチちぎって賞味したのが良かったのか、痛みも疼きも遠のいていた。わずか半年前までは身も心もボロボロだったのに、それが、薬用蟻を使った冬虫夏草のお陰で一気に夢と希望へと代わっていた。

「それにしても」と、川浪は考えていた。50才の誕生日が明けた朝、ハイチャンダァチュウテン(海城大酒店)に蟻を持ってきてくれた老人。流暢な日本語を喋っていたから、ひょっとすると日本人なのかも知れない。
でも日本人の誰も、田舎町の海城市に川浪が泊まっているなど知るはずもない。
それに、あの汚い袋を「不好」と捨てていたらどうなってただろうか。
先ず言えるのが「今、ここにいない」ということ。
台湾大地震が起きた前日の昼の便で、何の躊躇もなく台湾に戻っていたに違いない。そして震源となった小さな村に朋友たちが集まって、日本や中国の旅話しを語りながら酒盛りをやっていたに違いない。
カンペイ、カンペイと言い交わしながら陳年紹興酒を十数本も酌み干した後に、レンガ造りの研究所の椅子や床に転がって爆睡していたに違いない。そしてあの煉瓦の2階建ては、日付が変わった午前1時すぎ、激震とともに瞬時に崩れ落ちた。
数人の男が、夢から覚める間もなく煉瓦に打ちつけられ、埋もれ、その上に決壊した川が濁流となって流れ込んでいただろう。
だがその時には、ずっと不運を重ねていた「運命の歯車」が、ギアチェンジしていたのもしれない。
蟻酒を飲んだその朝に、いつも太ももを拳で叩きながら空港に向かうのが慣わしだったが、その日は痛みもなく身体がとても軽くて「身体の中で何かが変わった」と感じたのだ。
たったこれだけの理由で、衝動的に、川浪は台北行きをキャンセルして大連行きのフライトに切り替え、夕方には大連の博覧大酒店に投宿していた。あの薬用蟻をくれた老人を探そうとして。
それだけではない。大地震が転機となって、何かの力に引っ張られるように台湾から中国へと活動拠点を変えた。そして大プロジェクトに没頭したあげく大きな挫折を味わったが、そのどん底の底でもがきながら最終の一手として薬用蟻を試すこととなり、これが見事に成功へと導いてくれた。
想い起こしてみると、老人に薬用蟻を託された日を境にして、川浪の運命を操っていた巨大なシステムが、間違いなくギアチェンジしていたと思われる。

運命の糸を見せた冬虫夏草
厳しい大連の冬が来て、冬虫夏草の試作はお休みとなったが、この間に多くの人に食べてもらって効能効果を確かめたり、食あたりなどのトラブルがないかを調査しておかねばならない。
川浪自身が半年以上も食べ続けているのだから悪い結果が出ないのは分かっていたが、やはり「絶対に問題がない」という揺るぎない自信と、数多くの体験録が欲しかった。
薬用蟻エキスをベースに冬虫夏草を育てるなんて世界で初めてのことだから、何が出てきても不思議ではないという一抹の不安はあった。
少しでも早くデータをまとめてPRして、輸入窓口や事業主体を決めなければならない。だけどそうした日本における活動には、ホテル代とか飛行機など、かなりの経費がかかるだろう。
しかし残念ながら、公司の手持ち資金はとっくに底をついていた。経費を捻出するには、日本にできていた代理店の数人に、薬用蟻のカプセルを売ってもらって小銭を集めるのが精一杯、他に方法はなかった。

そんな凍れる冬の朝、突然と、高校時代の同級生で親友だったF君から国際電話が入ってきた。
イベント業を営んでいるF君は「大手保険A社が代理店表彰式を北京の人民大会堂の小礼堂を借りてやりたいそうだ。JAL航空北京公司に頼んだが、半年経っても回答がないらしい。調べてもらえないか?」というのだ。
人民大会堂といえば全人代(国会)が開かれる、日本でいえば国会議事堂に匹敵する施設で、北京市政府が所有し管理する中国随右の施設である。
小礼堂とは、党幹部500人が国家の方針と全人代の運営を話し合う重要で内密な会議室で、その三階にある。そんな凄い場所を日本企業が使うなんて無理に決まってると思いながら、北京の朋友に連絡を入れてみた。
半日後だった、早々と北京から「北京政府が許可してくれた。何でも市長の李さんが、川浪先生のことを知ってるそうだ」との連絡なのである。
F君に伝えると「本当か?」と、信じられなかったようである。あの大手航空会社でも無理だったのに、何で小さな公司の川浪が、しかもわずか半日で「OK」がもらえるのかと言うのである。

北京では珍しく大雪が積もった、とても寒い日だった。北京飯店で落ち合った川浪と公司の助理(通訳)そしてF君は、タクシーを拾って人民大会堂へと向かう。
約束の時間、大会堂に登る階段には職員たちが2列縦隊に並んで敬礼をして、川浪たちはその列の間を恐縮しながら登った。
これは、最上級の客人に対する施設職員の儀礼なのだろう。
扉の前に、責任者の劉主任(所長)らしき若くて大柄な男が迎えに出ている。固い握手を交わした後に、中国13億人を掌握する国家中枢へと足を踏み入れた。
メーン階段の踊り場には国宝級の彫刻が並び、大餐店(大会堂大宴会場)では、大天井に燦然と輝く巨大な国花・牡丹をあしらった大オブジェに度肝を抜かれた。
小礼堂は、映画館のように緩やかな階段状のフロアに深紅のビロードを被せた椅子が配されており、高級感は抜群である。
この豪華さの中で、社の威信をかけた表彰式をするとは、さすが世界に冠たるA保険である。その上に、夕食は大餐店(大会堂大宴会場)で最上級のパーティをやりたいという希望だった。
なんと、料理はクリントン大統領が訪中の際に食べた同じメニューを所望。それに中国随一を誇る上海雑伎団の演技、看板役者を揃えた京劇の上演、二胡(胡弓)と西洋楽器の混成演奏で間を繋ぐのが希望だという。
さらにA社500人のゲストに酌をしたり料理を装う服務員が各テーブルに1人、通訳は同時通訳クラスを10人も用意すれば宜しいでしょう。
さらに大餐店の壁添いには、切り絵師や似顔絵師など中国で名工と賞される模擬店が並び、大会堂正面には「熱烈歓迎、A保険公司」の巨大な横断幕を掲げるようにしてほしい。
「これならどんなゲストをお呼びしても、満足してくれるに違いない」と、F君は胸を張った。
眼が飛び出るような贅沢な演出である。だが、劉主任は平然とした表情で「全て大丈夫ですよ、政府日程が空いている時期ならいつでも契約させてもらう」と確約してくれた。
「夢を見ているようで、信じがたい」と、大会堂の階段を下りながらF君は盛んに首をひねった。日本にいるときは超難題だと考えてたのに、ここに来てみると、何でもないことのように感じてしまう。こんなことって、有っていいのだろうかと。
「分かった、劉主任を夕食に呼ぼう。信じられるまで質問していいよ」
日本料理のテーブルを囲んで、劉主任と腹を割って話しができた。JAL公司からの申込みは届いていないことや、北京市長が前任のとき、中国食用菌協会で川浪の講演を聴いていたことなど、いろいろと話してくれて、ようやくF君の疑問は確信へと変わった。

劉主任が提示してくれた見積額は50万人民元、日本円換算すると750万円に達した。500人のゲストとA保険のスタッフ、それに川浪らのサポートも含めると1人当たりで12000円予算の超国際級パーティである。
その上に上海雑伎団の総員40人、その航空機往復代金とホテル宿泊代金、機材を運ぶトラック5台が往復、それに加えて京劇の出演料、舞台装置設営費用など、日本の常識から考えるとかなり安目の金額だといってもよい。
保険A社も即座に合意してくれて、大会堂側と川浪公司が契約し、川浪公司が保険A社代理人と契約する運びとなった。そして川浪は来るべき公演の打ち合わせのため、上海に飛ぶ。演目を視察したり日本人の好きそうなものを選別したり、プロデューサーと入念な打ち合わせを進めなければならないからだ。
劉主任からの連絡はすでに雑伎団に寄せられており、応対してくれたプロデューサーの周は「大餐店の公演はとても緊張します、失敗ができないから」と直立不動で応対してくれた。
その他にも、劉主任の手配は抜かりがなかった。
「大丈夫、全て確認した」と、早々にも成功を確信し、日程も5月7日に決まった。
記念すべき壮大なパーティーが中国国家の中枢で行われる。

ところが、良い方向に切り替わったと思われていた「運命」という歯車が、またまた瓦解の方向に柁を切ったかようである。思いもしなかったことが、深く静かに進んでいたのだ。
準備万端、残すところ2週間に迫った4月24日に、F君から暗い声で電話が入ってきた。思ってもみなかった「SARSが怖いから中止にしてほしい」という連絡である。
「SARSって何だ?」
中国大連にいる者にとって、中国国内で危険極まりないニュースは逆に入りにくい。だから突然と「SARSが怖い」といわれても、理解できなかった。
聞くところによると、SARSとはコロナウイルス感染による急性呼吸器疾患で、中国広州が感染源となって徐々に拡大しているという。日本ではもっぱら、このニュースで持ちきりだというのである。
「またもや瓦解が始まったか」
川浪の頭の中で、何かがバラバラと崩れ落ちてゆく。またしても行く手を遮ろうとする、眼に見えない巨大すぎる壁・・
台湾プロジェクトも中国きのこ村構想も、さらにこの表彰式典も、どれもこれも同じように段取りを完璧に終わらせているのに、関与する仕事の全てが瞬時に崩壊してしまう。
「運命」に逆らわないようにと冬虫夏草の夢を実現させながら、親友の助けになればとの想いでやったことなのに。あれも駄目、これも駄目だというのは、あまりにも酷いじゃないか。誰とも付き合うなというのか、困った人がいても無視してしまう、そんな薄情な男になれというのか、川浪は天を仰いだ。
悔やんでばかりはいられなかった。精一杯の好意を示してくれた劉主任にキャンセルを伝えて、精算のお願いをしなければならない。
巨大な横断幕も発注しているだろうし、雑伎団も、川浪が打ち合わせしたとおりに大餐店の天井高に合わせた機械器具に改造してくれている。飛行機やホテルのキャンセル代、服務員たちのキャンセルフィーなど、すでに、かなりの費用がかかっていることだろう。
保険A社サイドの契約では、開催日より2週間を切った中止には違約金として契約額全額を頂戴するように取り決めていた。そしてまさしく、キャンセルの連絡が入ってきたのが、ちょうど2週間前。
契約違約なのか、それとも無償のキャンセルなのか微妙な日取りである。
危うい思惑が頭をかすめた・・・
保険A社から「2週間に達してないから無償キャンセルが成立する」と指折り数えられ、劉主任からは「残り2週間を12時間ばかり周っているから清算する」という、最悪の展開になったらまずいな。台湾でも中国きのこ村でも、最後の最後に致命的な大損をした。そして今度も、また大損を被りそうな雰囲気なのである。

あれは、キャンセルの連絡を受けた日から3~4日経ったゴールデンウィークの直前だった。保険A社サイドから「キャンセルは私どもの要望だから、全額をお支払いする。中国政府の感情を害せぬよう、上手く対処して欲しい」との意向が寄せられた。
そして5月初旬、劉主任から、思ってもいなかった回答が返ってきた。
「SARSは中国が起こした問題。川浪先生には多大な迷惑を掛けた。よってキャンセルに掛かる代金は不要だ」というのである。
「いやいや、キャンセルフィーは保険会社が支払ってくれるので、私にとって何の負担もない」と言っても、劉主任は頑なに拒むのである。
そして数日後、北京に飛んで劉主任と面談。払う、要らないの押し問答が続いたが、結局、北京政府がキャンセル料の受領を正式に拒否したのである。
予定どおり開催していれば50万~75万円程度の薄い利益だったろうが、SARSのお陰で一挙に800万円近い大枚が転がり込んできた。契約を遵守してくれた保険A社にはまことに気の毒だったが、我が大連渓流公司はこれで息を吹き返した。


超高層ビルから眺めた日本の空
朝日が昇るように幸運が続いた。
川浪の研究や実績を知った食用菌協会の研究者たちが、続々と会いに来てくれて「日本にキノコ菌床を輸出したい」というのである。台湾でやってたようにシイタケ、タモギタケ、エリンギ、霊芝、キクラゲ、そして川浪が名づけ親となった「つくし茸」を輸出して、日本では川浪が栽培指導をするという得意とするビジネスだ。あっという間に毎月4~5コンテナを日本に運ぶほどに急成長して、米ドルが絶え間なく流れ込んできた。
社員も増やした。
手狭になった事務所を、大連で一番の目抜き通りである人民路、大連富麗華大酒店(フラマーホテル)の斜め向かいに建った白亜の超高層ビル、虹源大厦(ホンイェンターシャ)34階に移すことを決めた。
「冬虫夏草も見事に完成したし、キノコ菌床のビジネスも順調。この虹源大厦を起点として、日本まで大きな虹を架けよう。日本の皆さんにクイックで健康を届けたい」と社長室の全面ガラス張りの窓から、はるか日本の空を仰ぎ見た。
そしてその思いが通じたのか、日本の総代理を希望する大証・東証1部上場のE社と20万菌床、貿易総額6000万円に達するビッグビジネスが進んだのである。
川浪はSARSのさ中、東京に飛んで冬虫夏草の事業性、安全性、効能効果、栽培方法などを説明し、そして2004年1月、契約締結とともに着手金として2000万円余が大連の銀行口座に振り込まれたのである。
思い返せば1年前、自然界のように元気な冬虫夏草が出現しないことを嘆き、苦しみ、酒浸りになって身体を壊し、凍てつく朝には腎虚でぶっ倒れ頭を強打して病院に担ぎ込まれていた。そして薬用蟻を思いついて、不思議なくらいに、あっという間に完全復活した。

手塩にかけた擬黒多刺蟻ベースの冬虫夏草20万菌床を日本に持って入ったのは、2004年3月30日だった。ちょうどその頃、もう一つの運命というべき巨大な歯車が、ゆっくりと始動していたのである。
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