中国編あらすじ

台湾大地震で全てを失った川浪が命からがら台湾を脱出して福岡に帰りついたその日、偶然にも、中国から招聘が届いた。極寒の過疎地に「国際的に展望できるキノコ産業を育ててほしい」という要請である。中国といえば川浪一族にとって縁の深いところである。さっそく大連に飛んで、真冬に菌糸を育て夏時期に美味しい「どんこシイタケ」が採れるプロジェクトを立ち上げた。そして2年、念願だった日本への出荷を果たすのだが、日本ではちょうどその時、シイタケ・畳表・ネギをターゲットにした貿易セーフガードが発効、思いもしなかった一片も陸揚げできないという地獄の結果となる。

大きすぎる挫折、賠償問題、さらに、胆のう結石の激痛、極度の不眠、坐骨神経痛に悩まされ、挙句の果てに凍てつく冬の朝、激しいめまいに襲われて石の階段に頭から転倒して絶体絶命のピンチを迎えた。

台湾から中国大連へ飛ぶMoved from Taiwan to Dalian

中国に行く運命なのか

祖父がしるした武勇

川浪一族と中国の縁は深い。
祖父の川浪武次は有田焼で有名な佐賀県有田町に生まれ育ち、日露戦争の終結と同時に中国・大連に渡って不動産開発の事業を始めたという。満州国が建国されると、多くの日本人が満州に渡ってきて、祖父が建てたという居宅を買って住み始めたらしい。
その祖父は、親父が誕生して5年後の大正8年に落命したそうだが、何処で亡くなったのか死因が何かも分からず、誰も亡骸や遺品を見てない。分かっていることは、ただ者ではなかったということである。
というのも、親父が産まれて日本に引き揚げるまでの30数年間、祖父と一緒に中国・大連に渡ったとされる従兄弟の川浪勝一が、毎年のように満州紙幣が詰まった桑折箱(こうり)を何箱も馬車に積んで届けに来たからである。そのお陰もあって、親父たちは大連市からおよそ200キロほど北に上った海城県(海城市の旧称)で広大な家に住み、さらに日本語学校のあった鞍山市にも通学用の別邸を持って、使用人を5~6人も置いて何不自由なく暮らしていたという。

親父の生家は遼寧省のど真ん中、大石橋(ダァシィチャオ)満鉄駅から馬車に乗り換えて北に1時間ほど駆けた街だという。現在の海城市中小鎮付近だと思われるが、居宅のすぐ近くには関東軍(満州に侵攻した旧日本軍)に爆殺された張作霖(チャンソリン)の生家があったと、子供の頃に何度となく耳にしたことがある。
張作霖は、海城県の貧農の子として産まれたそうだ。若い頃から馬賊になって暴れまわり、次第に頭角を現して海城を牛耳るまでに力を付け、やがて黒竜江省・吉林省・遼寧省を含めた東三省全域を勢力下におき、関東軍の後ろ盾を得て東三省総督に就任した猛者である。
張作霖一派は、祖父・武次が亡くなったとされる1919年に山海関(満中国境の砦)を越えて中国北部にも勢力を伸ばし、その後に、中華民国北京政府が張作霖を大元帥に奉りあげるなど大出世を果たし、自らを「中華民国の総督」と宣言するほどに権力を振るった。
これに対抗していた国民革命軍の蔣介石が北伐を開始し、戦いに敗れた張作霖は北京を脱出して故郷の遼寧省に戻るのだが、瀋陽駅近くの鉄橋に差しかかったときに列車が爆破され、落命したと歴史に残る。
その生き様から、中国国民の間では「国を盗もうとした大悪党」という好ましくない称号が付されているが、当時、間近で歴史に接してきた祖母・コトメは張作霖を悪くは言わず、祖父のことは「あん人は、よう馬賊討伐に出かけよった。日本刀と拳銃を腰に提げて使用人らを引き連れてのう・・」と、光を失った眼に溢れんばかりの涙を溜めながら腹立たしそうに話してくれた。
後に、浅田次郎さんが執筆した「中原の虹」を読んだとき、その筋書きとか臨場感が、祖母コトメの思い出話しとぴったり一致していたので驚いた。ひょっとしたら、祖父・武次と張作霖は家が近所で年齢も近いということから、連れだって国盗りの夢を追っかけた仲間なのかも、と思ったこともあった。

母親の父は、広島県警察隊可部署の青年幹部だったようである。ロシア国境に入植する日本の武装移民団を警護する任を負って、黒竜江省佳木斯(チャムス)の副街長として赴任したが、終戦と同時に南下を始めたロシア軍の楯となって入植者を逃がし、その後に捕まって銃殺されたと記録に残る。しかし、先に逃げたはずの祖母や母親の兄弟たち4人は、生死すら確認できていない。

川浪の父母は、終戦を哈爾浜(ハルピン)で迎えたという。怒涛の如く押し寄せるロシア軍と復讐を叫ぶ反日中国人から逃れようと、雇用していた中国人を居宅に住まわせ、その地下室に避難して1年余が過ぎた凍れる嵐の中を、彼らが操る荷馬車の積み荷に隠れるようにしながら、日本への引き揚げ船が出る葫蘆(ころ)島まで辿り着いたそうだ。
日本人狩りをするロシア軍の検問を何度もくぐり抜けながら、その都度、劉さんたち使用人が身を挺して護ってくれたと、当時の恐怖と感謝の想いを何度となく回想していた。
このように川浪一族と中国人は切っても切れない、深くて強いしがらみで結ばれていたのである。

そんな川浪が中国共産党に招かれたのは、台湾大地震をさかのぼる2年前の97年6月20日で、その日は忘れもしない48歳の誕生日だった。
「中国食用菌協会で食用菌(キノコ)の世界探訪について、講演をお願いしたい」とのオファーが党幹部から寄せられて、祖先の亡霊たちに強く引かれる思いで中国の土を踏んだ。
地方政府幹部、共産党幹部、食用菌(きのこ)学者、培養技術者らで構成する中国食用菌協会員約300人が、河南省必陽(ビーヤン)に集結するなか、川浪は「過疎地を再生する薬膳食用菌」をテーマに講演。まずまず出席者の興味を引いたのだろうか、翌年の沈陽市の講演会でも講演することになり、協会幹部の間では著名人になって、各地に朋友が出来た。
内蒙古政府や河南省政府からもたびたび招聘(政府がらみの招待)が入ってきて、川浪が訪てゆくと政府も党の幹部も喜んでくれて、昼は市長が、夜は党の書記さんが主宰した宴会を催してくれた。
接待は超VIP扱いで、昼も夜も豪華料理三段重ね(回転テーブルに料理皿が並び、その皿と皿の上に二段目の料理が、またその上に三段目の料理が重ねられる、もっとも豪華な設営)の宴会を催し、五粮液(ウゥリャンイ)という最高級白酒(バイチュウ)の乾杯を、繰り返し繰り返し重ねた。
こうして培った川浪と地方政府の幹部たちとは堅い信頼で結ばれ、いざビジネスが始まると、彼らがパートナーとして合作(事業協力)をしてくれることになっていた。
台湾も中国も日本でも、キノコの将来を信じる企業や朋友たちが、川浪の提唱する「大きのこ村構想」の実現に向けて、次々とスタートラインについてくれたといっても過言ではなかった。

極寒地で暖房不要の椎茸栽培
台湾をベースにしながら2年近くも準備してきた川浪が、これからは阿里山~日本~大連の往来がより頻繁になるだろうと考えて、日本にオフィスを設けたのは99年夏だった。
台湾大地震が勃発する1ヶ月ほど前だったか、福岡空港至近のマンションの一角に、会議用の長机と椅子8個、電話FAX兼用機、それと、奥の部屋には急な時に宿泊できるようにパイプベッドを用意し、ゆくゆくは事務員も必要になるし、事務用品や生活備品も揃えてゆかねばならないなと、大きな夢を描いていた。
そして輝かしき日本事務所の門出からわずか1ヶ月後に、悪夢の台湾大地震が勃発して、ビジネスも夢も希望も朋友も、虎の子の資金までも失って、身も心もズタズタになった男が舞い戻ってきた。
これから、何をしてゆけばよいのか・・
長机を前にして茫然としていると、突然と目の前に置いていたFAX機がカタカタと軽い音を立て始め、書き殴ったような荒っぽい字が見えた。送信者は、親父が生まれ育ったという大石橋市にほど近い、海城中小鎮政府の通訳代理人を務める曹彦楓である。
「お兄ちゃんへ、全人代(日本の国会にあたる)の政策の一環として過疎地振興にキノコ事業を取り入れるそうです。是非とも海城の政策顧問として指導してください。至急のお越しを待ってます。大連空港に迎えに行きます」
まるで何処かで台湾の大崩壊を眺めていたかのように、あまりにも偶然。オフィスに着くのを見計らっていたような絶妙のタイミングなのである。
運命が動いた、と川浪は心の底に突き上げるものを感じた。
遼寧省海城市は大連から北に約200キロ、人口100万人足らずの街である。何のご縁か、この政府の青年幹部たちとはとくに親しく交流し、幾度となく盃を酌み交わしていた。
中小鎮政府(日本でいえば区役所)の建物は親父が産まれた家の近くだという安心感もあるような、何か懐かしい匂いのするような、何か心が沸き立つような想いも重なっていた。
断る理由など、有るわけもない。
川浪は勇躍、中国に向かうことにした。

海城市といえば緯度では日本の青森市に匹敵する寒冷地である。ここでキノコ栽培を振興しようとするには、低温冷気に耐えられる品種を選択せねばならない。
川浪が、広大な大自然と向き合いながら取り組もうとしたのが冷暖房不要のシイタケ菌の研究開発である。シイタケ栽培の場合、通常であれば20~25℃でなければ発芽しない。したがって海城市の場合は、真夏を避けて夏の終わりから秋にかけて収穫するのがよいのだが、9月中旬になると暖房を焚かないと育たなくなる。
暖房をかけると設備が貧弱だから良いシイタケが採れないし収穫量も激減することで、地域産業には向き難い。
しかしこの寒冷地では穀物も野菜も育たないから、発想の転換をしなければならない。
「中国は広い。内陸部や北部の自然界には、凍てついた氷を突き破って発芽するようなシイタケ菌種もあるはずだ。そんな菌を採取して寒冷状態で菌床をつくり菌糸を育てていれば、凍える寒さの中でも暖房なしでシイタケ栽培が可能になるだろう。
そんな極寒の菌種を、食用菌協会で培った朋友たちに頼んで探してもらおう」と考えた。
早々と、河南省内陸部の政府機関の劉副県長さんから連絡が入ってきた。
「私の政府では原木栽培に力を入れています。今年の冬には500万本ほどの榾木を用意するので、その中で寒中発芽のシイタケは見つかりますよ。私の方で採取して培養してあげます」という。
早速、以前から乾杯を繰り返していた仲間たちとの合作が始まった。
このシイタケ菌を使えば極寒の冬場に菌糸育成しておいて、春から秋にかけて発生させることができる。この時期に生シイタケを日本に輸出すれば、日本はちょうどシイタケが採れない時期(不需要期)にあたるから、青果市場は歓迎してくれるはず。
そして日本でシイタケが採れる秋になると、こちらでは最盛期を過ぎていて小さな粒しか発芽しない。この小粒は茶碗蒸しなどに入れる乾シイタケに向ければよい。
遼寧省・吉林省・黒竜江省・内蒙古という寒冷地4省の過疎地に、この耐寒シイタケ菌を普及して花どんこ(大分県シイタケで有名)を栽培して日本へ輸出。
乾シイタケは大連周水子空港、さらには瀋陽桃仙国際空港からほど近い場所に国際市場を開設して、日本をはじめ台湾、香港、シンガポールなどから訪れる華僑バイヤーに販売するという壮大なビジネスを、川浪は立案していたのである。
トウモロコシの生産に陰りが見えてきた寒冷過疎地の農民経済復旧はこの手しかないと、党の幹部たちも着目してくれた大構想が一挙に具体化できるのである。
着任から数日後には海城政府が「大きのこ村構想」の事業化を決定して、大きな予算を投じることとなった。
哈爾浜(ハルピン)に向かう高速道路ICを下りてすぐ右の広大な用地に216万菌床を収める栽培ハウスを建てて、いよいよプロジェクトの第1幕が切って落とされた。

プロジェクトを日本にPRすると日本農業新聞が大々的に報じてくれて、それをきっかけに商社、食品流通業者などが続々と視察に訪れることとなった。川浪はツアーを組んで、これに対応することになる。
「中国遼寧省キノコ村商談ツアー、3泊4日。参加費1人15万円」と銘打って、往復航空券(羽田・関空・福岡発着)、中国4つ星級ホテル宿泊、豪華海鮮料理など全食事付、一流カラオケクラブ2夜豪遊、移動は政府要人クラスの送迎に使う超高級マイクロバス、などなど全てを含んでこの価格である。
その内の航空券往復は川浪が分担し、中国における宴会費とホテル代は地方政府が負担してくれる取り決めをしていた。
中国大連を訪れる日本人旅行者が少なかった頃である。豪華すぎるツアーとの噂が噂を呼んで、社長レベルの申込みが殺到。毎週20~30人が参加するなど盛況で、マイクロバス1台では間に合わない時期もあった。
航空券(中国国際航空)を団体購入すれば5万円余、その他もろもろの出費を差し引いても8万円近くが川浪のフトコロに残った。その上に、プロジェクトへの出資を希望する企業や個人を合わせて、わずか1年足らずで8000万円余の軍資金が集まったのである。
これを資本に、現地の政府幹部と合弁合作(事業のパートナーとして資金を出し合う)公司を設立して、シイタケ商品加工場に日本の技術を導入するヤードを設備すれば出荷準備が完了するという道筋が明確に見えてきた。
大連に進出して1年になる2000年9月、これらの事業と輸出を一手に担う川浪独資の公司を設立する運びとなった。
大連空港から大連市街地に入り、黄河路を進んで新開路と交差する場所に、珠江国際大厦がそびえる。そのビルの一角、808号室に大連渓流国際貿易有限公司を設立して、同時に、海城市には海城渓流国際貿易有限公司を設立。どちらの公司も川浪が董事長総経理(代表取締役社長)に就任して、日本、さらには世界に向けた本格的な歩みを開始したのである。

プロジェクトがスタートして18ヶ月、02年4月16日。計画どおりに収穫が始まり、春祭と間違うほど多くの農民たちが集まって選別し、トレー盛りつけパック作業が始まった。最新鋭の日本製全自働パック機2台が高速でうなり、次々と生シイタケをパック包装してゆく。
これから150日の間、全216万菌床から約650万パック(200g/パック)の商品ができる。しかも日本にシイタケが採れなくなる夏の季節。この品質なら、日本の厳しい要求にも充分に対応できるはず。
大成功だ、危惧することは何もない。

そして記念すべき、第1船。大連貿易港を見下ろす高台に集合した川浪と政府幹部たちは、どんこシイタケ6万パックを積載したコンテナ船が福岡県門司港に向けて出航するのを見送った。
低く太い汽笛を鳴らし、茜色の夕陽を浴びながらブゥハイ(渤海)の水平線に消えてゆく船を、暗くなるのも忘れて眺めていた。
これから、日本産シイタケの収穫が始まる10月までの5か月間、毎日3コンテナもの花どんこをパック包装して出荷する。
夏の暑い時期に、肉厚の「どんこシイタケ」なんて見たことも食べたこともない日本の人たち。しかも、極寒地のクヌギをチップにして発生させるのだから、弾力性と豊かな芳香、グアニュール酸がたっぷり詰まった極上の味覚である。
日本で人気が高まることは間違いない。しかもこのシイタケは絶体に他社では真似が出来ない、オリジナル菌種である。
「夏期のシイタケ市場は俺が握った」と水平線に消えた船を目で追いながら、満足の笑みを浮かべた。
その時には頭の中に、親父と交わした約束のことも冬虫夏草のことも、まるで存在していなかったのである。


夢を砕いた日本の参議院選
日本の荷受け会社から緊急連絡が入ったのは、出航から3日後の02年4月23日だった。
「日本政府が今日、セーフガードを発効しました。関税が200%以上もかかるから引き取リ不可能です。コンテナをそのまま大連港に返します」
「何を寝とぼけたことを言ってるのか、セーフガードって何だ。今日の今日まで聞かされてないぞ、そんなこと初耳じゃないか」
川浪は電話口で怒鳴った。
まるで悪夢でも見ているようだった。台湾を引き上げてからすぐ、99年10月から始めた中国きのこ村プロジェクト。以来18ヶ月の間、全知全能を傾けてきたシイタケ生産基地。
極寒の冬日には菌床を凍らせないよう、半地下にした栽培ハウスの屋根に登ってムシロ掛けの陣頭指揮。吊り下げた菌床の袋からシイタケの小さな芽が出ると、薄暗いハウスの中で3~4日も立ちっぱなしで、農民たちに袋切りの方法を指導した。収穫したシイタケの選別、トレーの盛り方、商品に張り付けるラベルのデザインも全て日本市場向けに行った。
この子たち(シイタケ)が日本のスーパーマーケットに並んで、居酒屋や焼鳥屋の籠の中にもドッサリと盛られると、その香ばしさと食感に、客からは感嘆のため息がもれるに違いない。
そんな想像を膨らませながら頑張ってきたのに、ほんの1パックも日本に上陸することもなく、コンテナのままで大連港にUターンするのか。
目の前が真っ暗になった・・・
事情を調べてみると、中国南方産の安いシイタケに悩まされていた群馬県のシイタケ栽培組合から参議院選挙で組織票を集めようとする参議院議員が仕組んだことだと分かった。
そんな馬鹿な、日本のシイタケ栽培者に迷惑を掛けているのは中国南方の福建省や浙江省の産地からシイタケを買い付けている日本人バイヤーじゃないか。しかも、そちらの収穫期は10月から翌年3月だから、日本のシイタケ収穫時期とピッタリ重なる。
だけど、このセーフガード(輸入制限)は、福建省や浙江省の出荷が終わる4月から始まっているではないか。4月からは日本もシイタケがなくなるし、南方からのシイタケ輸入もない。
ということは、恐らく、中国政府に気を遣って影響がない時期を狙ってセーフガードを発効したのだろう、ゆわば選挙用に、見せかけの制裁をしたということだ。
しかしながら、そのとばっちりが、全て、日本人である川浪に向かって来た。
「馬鹿げてる、あまりにも理不尽な」
早速、日本に飛んだ。
農林水産省林野庁と掛け合っても、通産省と掛け合ってもビクともしない。思いあまって、前総理で財務大臣だった宮沢事務所に飛び込み、ちょうど居合わせた大臣に直訴した。
「どうしてもやりたいと言うから、それならおやりになったら、と言ったよ。あとで後悔するだろうけどね」
大臣はニヤニヤ笑いながら応えてくれた。
なんということだ・・
冷たい霧雨が降る永田町をトボトボと歩いた。もう打つ手はない、諦めるしかない。
またもや大成功を目前にして、一挙に崩れ落ちてゆく大願成就の道。
台湾では大地震によって瓦解したビジネス、続いて中国でも、予想だにしなかった日本の選挙による障害。
50才を過ぎて行く手に立ちはだかる、正体不明の巨大すぎる壁。3年間で2度に及ぶ大きな挫折と屈辱を経験するとは、何という異常事態、何という運命なのか。
しかもこの度は、異国の寒空の下で身に降りかかった致命的ともいえる大敗北である。
残される道は・・・
川浪は考えた、何もかも放り投げて日本へ逃げ帰るか、或いは、意地でも中国にへばりついて遮二無二、キノコをやり続けるかの二者択一。
でも、逃げるわけにはいかない。
セーフガードによって多大な迷惑を掛けた地方政府との問題を解決しなければならないし、日本からの出資者への対応もこれから始めなくてはならない。
結局、川浪は中国に残る道を選んだ、いや厳密にいうと選ばざるを得なかったのである。

プロジェクトの後処理が始まった。売り先を失ったシイタケ数百トンが谷に廃棄され、豚や野鳥のエサになったと聞く。
不幸中の幸いというか、地方政府との約定も日本の出資者との覚書でも、両国政府の貿易摩擦が原因となる約束不履行には、賠償も弁済義務も免れるようにしていた。
しかし川浪は可能な限り、全ての手持ち資金と合弁資産、営業財産を弁済に充てた。
「どうせ裸一貫で中国に来たんだ・・」
そして整理がほぼ終わった時点で、公司に残った金は10万人民元(150万円)にも満たなかった。
外国で金が無いのは、首がないのと同じだと言われる。 どうやって立て直したらよいのか。
失望落胆の崖っぷちに追いやられて、毎日毎夜、思案が続いた。
何かが欠けていたのだろうか、全身全霊を注ぎ込んだはずの川浪に、何の落ち度があったのだろうか。いいや、何も失敗もしていないし先読みを誤ったわけでもない。
しかしながら原因を見つけださないことには、再起してもまた同じように瓦解してしまう。
好調だった台湾プロジェクトはなぜ一夜で崩壊したのか、また、中国きのこ村構想は、なぜ完成を見ながら一気に瓦解したのか。プロジェクトの正当性、資金の集まり具合、スタッフや協力者、ノウハウ、地の利、販路、川浪の打った手には絶対にミスはなかった。
となると残る一つは、運命・・
今まで見たことも感じたこともなかった巨大すぎるパワーが、おぼろげながら頭に浮かんだ。

運命の歯車が狂い始めた時
そういえば、あの時もそうだった。
川浪は若かりし頃の記憶を辿っていた。生まれ故郷の広島では、事業の拡大を目指しながら政治の道を志していたんだ。
南に接する江波地区を地盤とする市議会議員Y先生の集票マシンとなって、政治活動のスタートを切ったのが28才。行動力、運動員らの統率力と演説度胸が認められて、青年部会長に出世する。
その年にY市議会議員より「衆議院選挙では官僚トップ(建設省事務次官)から転身されたA候補を支援しよう」との指令があった。
その候補、高潔な政治家として絶大なる人気を誇っていたN代議士の後継として立候補した広島市出身のA先生である。
悠々楽々と大勝するとみられていたが、結果は誰も予想しなかった、落選。
翌日、残務整理でA事務所に伺うと、それまでは人の輪が重なって近づくこともできなかったのに、誰もいない中で先生と親しく話ができた。
「負けちゃったね、広島は私を必要としてないのだろうか?」と寂しそうにつぶやいた。
「そうじゃありませんよ、戦術が失敗だった。まさしくガス風呂選挙です」
「何ですか、ガス風呂とは?」
「上だけ熱くて、下はずっと冷たいままです。正直、私だって応援する気持ちはあっても、何も出来なかった」
選挙で感じたことを、川浪なりに話した。
上とは建設業界や土建屋の社長のこと。下とは実際に票を入れてくれるお爺ちゃんやお婆ちゃんたちのこと。この選挙で汗をかいたのは上の人だけで、下の人は先生の顔も見られないし、話も握手もしたことがない。雲の上の人だから投票をしなくても大丈夫だろうと。
長時間、遠慮気兼ねなく話をした。
そして最後に「今度は絶対にガス風呂選挙にはさせないから、もう1度立ってください」と申し添えた。
そして迎えた2度目の国政選挙・・・
川浪は、地域のお爺ちゃんお婆ちゃんの側の世話人となって活躍。さらに、選挙戦が始まろうとする前夜、全日空ホテル「孔雀の間」で役員総決起大会が開かれた。
県市町村議員と団体・法人代表の合計450人を前に、選対委員長で県議会副議長のD先生が前回同様に抑揚のない声で淡々と閉会を告げようとしていた。
「ちょっと待ったッ」
壇上に駆け上がり、副議長のマイクを取り上げた川浪は叫んだ。
靴を脱いで頭上に振りかざし「このように靴底がすり減るまで、票を掘り起こしてほしい。絶対にガス風呂選挙は許されない」と。
川浪につづいて、今まで何も言えなかった郡部の議員や年若き地区の委員たちが次々とマイクを握って拳を振り上げ、熱き抱負を述べた。
総会はヒートアップして、予定時間を30分超えても終わらなかった。
「そうだこの調子だ、これで勝てる」
川浪は勝利を確信、選挙戦に突入した。
選挙本部も川浪の指令に精一杯答えてくれた。
そして、地元の舟入6ヶ町だけでなく隣町の江波、神崎、さらに本川町にまで足を延ばして数多くの支援を取りつけ、そして見事にぶっちぎりのトップ当選を果たしたのである。
A代議士はたいそう喜び、大いに認めてくれて堅い絆で結ばれた。そして広島1区を代表して自民党本部青年部会に推挙され、党大会に臨んでは、箱根の党施設で政治の勉強を始めることに。金丸信先生や羽田孜先生から直接、日本政治や農業改革の真髄を伺うこととなる。
A先生の有力ブレーンに成長した川浪は、三度目の国政選挙でも辣腕を発揮。A候補のファミリーを連れてまわっては、足を踏み入れてなかった本川の向こう、大票田である吉島、光南地区を次々と開拓していって、勿論、当選。
選挙後に、地元舟入の町内会長や婦人会長、有志や長老らに背中を押されて、県議会議員選挙に立候補する腹を固めていた。
「親父のように、広島の発展に寄与したい」と生涯、県議会議員を貫き通す所存だった。

我が集票につながる活動も活発に行った。広島市の芸能文化を支援する「由友の会」という民間団体を立ち上げると、他の選挙区の県・市議会議員や広島市中区に支店を置く大手企業や団体も参加してくれた。
羽田別荘という地元ガーデンに企業や住民を集め、広島交響楽団を招いて盛大な演奏会を催し、その収益全てを運営に苦しむ楽団に寄付したことも好印象になっていた。
そんな時に起きたのが、町内で勃発した居直り強盗事件である。たった一人で前科13犯の男を追い詰めて捕まえ、これがテレビや新聞で大きく報道されて勇気と強さも評判になった。
その上に、根っからの叩き上げだからどぶ板選挙といわれる票の掘り起こしも得意中の得意。さらに、票の掘り起しが伸びない際に行った裏工作(これは今でも絶対に公表しないけど)も、率先垂範してやっていた。
県議会議員選挙では、中区が定員2名である。その東半分を地盤とする現職1名と、西半分を取りまとめる川浪と。
中間地点で現職のN先生は、前の選挙で「もう1期だけやらせてほしい。やり残したことがあるから」と、川浪の事務所に尋ねて来て懇願。
したがって今回の県議選にはN先生は出馬せず、川浪の応援に回ると表明してくれた。
とすると、川浪は、およそ15万といわれる大票田にただ1人、立候補することになる。わずか1万2千票をかき集めれば悠々と勝てるのだから、目をつぶっていても当選するという確信があった。
その上に、それまでの選挙で応援してきた先生方やその後援会組織も何割かは味方についてくれるだろう。
前年に行われた市長選、その際にも川浪の組織はフル活動して、五期目の当選をはたしたA市長。奥さんから格別の感謝を頂いており、よってこの後援会組織も応援にまわる。
選挙の専門筋によると「人気と人格に優れるA代議士をバックに立つだけでも競合しようとする相手はいないのに、ちょっと票を取りすぎじゃないの」と冗談めかして言っていた。
中区の高級住宅地に4階建てのビルを建て、3階は政治活動のためにキープ。立候補の意志を誰にも喋ってないのに、選挙が近づくに連れて、ぞくぞくと支援者が集まってきた。
あとは2ヶ月後に迫る選挙を待つだけだった。
事業も、一つの区切りをつけていた。20年間、夢にまで見た無借金経営を実現し、その上にバブル崩壊を予測して、高騰した土地を市役所に売却。大きな利益も転がり込んで会社も安泰だという時に、全てを兄に譲って政治活動に専念することにしていた。後顧に憂い無し、機は熟したり・・・

そういえば、立候補する時もそうだった。有頂天になっていて、今際のきわの親父と交わした「癌にリベンジしてみせる」という誓いなど、完全に頭になかった。そしてその矢先、いわば人生の絶頂にあるべき時に、予想だにしなかった大どんでん返しが起こった。
人気・信用・実力・資産・人脈など、鉄壁だと思っていた20年の蓄積がわずか10日間で瓦解し、広島を去る決断を迫られた。
大恥をかいて馬鹿にされながら広島に住み続けるよりは、後を振り返ることもなく広島を、いや日本を飛びだして生きようと。
何かに導かれるように向かったのが台湾阿里山、そして、冬虫夏草と出会う。
ということは・・・
「癌に打ち勝つ何かを見つける」と、今際のきわの親父に約束したじゃないか。そして冬虫夏草を見つけたんだろう。それなのに、何で冬虫夏草を本気でやらないのか」
自身の叱咤の声に、ハッとなった。
もしかしたら、自分と冬虫夏草の間に強い運命の糸が絡みついているのかもしれない。
冬虫夏草を待ち望む多くの人たちの想いが、太くて強力なパワーとなって運命を操っているのかもしれない。自分には冬虫夏草を成功させる、という目的があったではないか。
そうか、冬虫夏草の日本国内栽培を成功させなければならない運命にあるのだ。
「分かったぞ」と、川浪は奮い立った。
「面白い、トコトンやってやろうじゃないか」
この先も大きな壁が待ち受けるかも知れないが、でも絶対に、冬虫夏草を諦めてはならない。優秀な冬虫夏草を培養して日本に持ち帰り、誰もが食べられるようにしなければならないという使命がある。
そして必ずや、癌にリベンジしてみせる。
川浪は意を決した。

3年間で2度の大きな挫折Fail twice in three years

冬虫夏草の光を見た

冬虫夏草はやはり神秘だった

中国きのこ村プロジェクトの夢を打ち砕いた、あのシイタケ・セーフガード。参議院選挙の票集めのために中国を標的にした貿易規制だったはずだが、とんでもない結末に終わっている。
中国が、すぐさま報復セーフガードを撃ってきたのだ。日本が規制したネギ・シイタケ・畳表に対して、中国の規制は自動車・携帯電話・エアコンという三品目、しかも日本を代表する企業を支えるアイテムを対象にしたものである。
報復セーフガードは日本に遅れること2ヶ月、眼にもとまらぬ速さで実現した。自動車大手・電気大手企業が苦情を訴える中、経団連も強く政府に抗議する。
「ネギやシイタケなど安価なものを規制して、高額な品目に対して報復されるとは、なんと馬鹿げたことを」と、日本国内では非難が渦巻いた。
中国のセーフガードが施行されて約半年、日本政府は、武部農林大臣と平沼通産大臣を特使として中国に派遣して日中貿易交渉を始めた。
川浪はその当日、人民路の突き当たりに位置する港湾広場に建つ新東方餐館にいた。そこは大連随一の広大なホールを有する大衆レストランで、ホールの四隅に配置された大型テレビでは貿易交渉の様子が放映されており、それを見ようと集まった中国人客でごったがえしていた。
午後5時すぎ、二人の大臣が立ち上がり、テーブルに手をついて額をこすりつけるくらいに深々とお辞儀をしているではないか。この日本政府高官の陳謝によって、セーフガードが解決した一瞬だった。テレビに釘付けだった観衆から、同時にウオーという歓喜の声が上がった。
何処からともなく、乾杯乾杯の大宴会が始まった。
「シャオリーベン、ダーチォングォ」ジョッキを突き上げ、カンペイとともに繰り返される「小日本、大中国」の大歓声が、何度も何度もホールを揺るがした。まるで、独立戦争に勝利したような雰囲気に包まれていた。
あの事件を境にして、日本人と中国人のパワーバランスが変わったように思える。道を歩いていて対面すると、今まで道を譲ってくれてた中国人が道を譲らなくなって、逆に、日本人が道を譲らなければならなくなったことである。
セーフガード、それは日本人にとって、いったい何だったのか・・。日本の経済力と中国の知力の分岐点を、川浪ははっきりと見届けた。

中国きのこ村プロジェクトの後始末が終わってすぐに、有り金をはたいて、大連空港からほど近い甘井子区山東路の裏通りに建つマンションの地下一階に研究室を設けることにした。
そこは以前、レストランが営業していて、その後を引き継いだ研究室だった。
来る日も来る日も、いろんな昆虫に冬虫夏草の組織を植えつける試験を繰り返すのだが、自然界のものとどこがどう違うのか、何が悪いのか、髪の毛のように細い子実体がチョロチョロと伸びるものの、自然のさ中で見つけたあのプリプリした元気いっぱいの冬虫夏草は出現しない。
こんなんでは、台湾の頃の研究と変わらない。自分が食べてみたいと思うような冬虫夏草は確保できないし、こんなんでは日本でやろうとしている大規模栽培なんて、夢のまた夢である。
またまた挫折感に襲われて「やはり神秘は神秘なんだ。カップの中で栽培するというのは無理なのか」と諦めがよぎって、次第に頭脳の構造が緩んでいった。

昼間から珠江国際大厦1階の「肥牛しゃぶしゃぶ」で、青唐辛子の腌制緑辣椒(ピクルス)をつまみながら生ビールを煽り、部屋に帰って少し眠ると、夜は夜で人民路の海橋大酒店の2階にオープンした日本料理店「大江戸」に行って、醤油辛い「きんぴらゴボウ」を肴に、内モンゴルで蒸留したという焼酎を煽る生活が続いた。
夢敗れ、挫折を目前にした男の孤独な闘い。不満と不安が交錯して、不眠症が高じていた。
酔った勢いで一気に寝るのだが、ものの2~3時間もすると目覚めてしまう。そうすると、中医から「破裂寸前」と警告されていた胆嚢結石が疼いて朝まで眠れない。
他にも、様々な病根があった。
頭と首の付け根にある神経鞘の炎症が原因といわれた激しい偏頭痛、血圧の上が180、下も100を越えて驚くことに心拍数が平常時でも毎分120に達した。黒かった頭髪が抜け落ちて白髪が進み、乱視がすすんで文字が見えない。鼻詰まりで寝られないからといって、まとめ買いしたルル点鼻薬を1週間に1本。さらに、胃が灼けるといっては太田胃散を毎食後、2匙3匙。
便秘と下痢の繰り返し、脚が抜けるほど痛む座骨神経痛に夜な夜な苦しんで、マンション近くの按摩店で癒してもらう。
季節の変わり目には、必ずといってよいほど大風邪をこじらせて、39度超えの高熱と激しい気管支喘息に苦しんだ。
そして最も厄介だったのが、漢方医が瘡(そう)と呼ぶ難病である。
ゴルフボールほどの血膿の塊が顔面や耳たぶや脇下などに吹きだして、次第に体内へと移ってゆき腹膜や胸膜にも転移するという難病である。内臓に病根があるというこの病気は、切っても切っても直ぐに体のどこかで血膿が膨らむという。
後のテレビドラマで高い視聴率を上げた韓国薬膳ドラマ「チャングムの誓い」で朝鮮李王がこの病にかかり、チャングムに冬虫夏草を見つけさせたのだが、時はすでに手遅れ。衰弱して他界するというストーリーが見どころだったあの病気である。
そんな病魔が川浪の体内にもフツフツと芽生えていて、その度に「いつかは大手術になるんだろうな」と思いつつ、取り敢えず眼前の血嚢を取るべく、冷たい手術台にのぼって切開してもらっていた。
そして最大のピンチが訪れた、あれは2月になったばかりの寒い朝のこと。
朝食に立ち寄った快餐店(ファーストフード)入口の階段で、突然と、身体が反り返るほどの激しい目眩(めまい)に襲われた。
凍てついた石の階段に激しく頭から突っ込んだ川浪は、遠のいてゆく意識の中で「頭を打った、お父さん、死なないで」と慌てふためく社員たちの叫び声を聞いた。
死ぬのか・・・
痛さも冷たさも感じなかった、ただ頭の芯に強い痺れを感じながら、ゆっくりと暗い谷底に落ちていった。
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